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大河への道 立川志の輔 新作落語「大河への道 伊能忠敬物語」小説版 感動

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あらすじと拙評

伊能忠敬の故郷、千葉県香取市の市役所に勤める池本は、観光振興策として「大河ドラマ推進プロジェクト」を任せられ、NHKに提出するあらすじを脚本家に依頼するが、伊能図が将軍に上呈されたときはすでに忠敬が亡くなっていたことを知る。奇想天外にして感動の歴史物語。2022年公開映画「大河への道」の原作。

本文

プロローグ

2010年3月20日の朝、千葉県香取市役所は歓喜に包まれた。
「伊能忠敬資料、国宝に!」
この悲願達成に加えて、香取市にはもう一つ達成したい悲願があった。

平成の伊能隊

主人公?池本保治は、総務課主任50代後半。
今、商工観光課長の小林が、第二回千葉県観光客倍増計画案の策定対策会議を仕切っている。商工観光課の案を、同じ総務課の後輩、木下は小ばかにしていた。
突然意見を求められた池本は、「大河とか・・・」と口走ってしまった。
その矢先に、プロローグでの快挙である。急に潮目が変わった。

だが、市役所をあげてのプロジェクトが始まった翌年の3月、それは起きた。
2011年3月、東日本大震災である。
今まで掛けた予算を無駄にしないよう、NHKに企画書だけは提出するという「敗戦処理」が、「大河」発言をしたという理由で、池本に任された。

池本は、東京のテレビ制作会社に勤める大学時代の同級生の藤田に、企画書の支援を求めた。藤田が紹介してくれたのが、やる気のなさそうな経験も浅い脚本家の青年、加藤だった。とりあえず、池本、後輩木下、脚本家の三人で、伊能忠敬ゆかりの地を訪問することにした。

千葉県九十九里町、当時の上総国山辺郡で、1745年、伊能忠敬は小関家の三男として生まれた。その九十九里浜で、池本と木下が、伊能歩きと方位磁石で直線を少しずつ書いてみようというのだ。方向と距離が分かれば、地図が書けると理解した。
坂道は、象限儀なる分度器で傾斜の角度を測り、三角関数で平面距離を算出したという。

九十九里浜から一時間ほどで香取市に着いた。小野川沿いの佐原の古い町並みを三人で歩く。伊能忠敬記念館がそこにはあった。
人工衛星が撮影した日本地図と伊能忠敬らが作った地図が近づいて、みごとに重なるという演出に、三人のうち一人は鳥肌が立った。

だが、意外なことを聞かされる。
「二百年前に忠敬さんが十七年かけて、一歩一歩大地を踏みしめて、地球一周分の距離を歩いてこしらえた地図は、火事で全部燃えてしまって、もうどこにもないんです。」 !!
そのとき、やる気のなさそうな加藤の心のスイッチが入った。

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文政三年十月 伊能忠敬の友人、綿貫善右衛門の話

伊能忠敬は、佐原の隣村の津宮にある綿貫善右衛門の家を突然訪ねてきて、三十七歳の忠敬さんは、二十歳の綿貫に、漢籍(中国の書物)の教えをお願いした。
清酒一升と餅二枚の持参品だった。

忠敬の依頼を了承して、いざ伊能家に赴くと、蔵にある蔵書の数々に驚いたそうな。
忠敬は入婿であったため、好きな書物を自由に読みたくて、江戸に伊能の店を出して、奥方や家の目を遠ざけて書物を読みふけったという。

そして、忠敬も四十半ばで隠居願いを出すも、ご領主からは許しは出ず、それならばと、お伊勢参りを理由にして、測量の旅を開始したのである。

一年後、ついに隠居の許しが出てから四半世紀、ずっと日本を測量し続けていると、友人の綿貫は言った。

歩く落花生

ちょうど梅雨入りしたころ、加藤とプロット(筋、構想)について話し合い、二ヶ月が過ぎるころ、加藤は民法の単発ドラマを描くためプロジェクトから離れた。
池本と木下は、企画書の提出に間に合わせるため、調べものに注力した。

そして、忠敬が図りたかったのは、地球の大きさだったということが分かった。
どえらいことである。天文学の知識で緯度1度分の距離が分かれば、360倍すれば地球の大きさが分かるという理屈である。

さらに、忠敬は測量の旅先で、地元の対応が悪いと威張り散らしたという人間味あるエピソードを掴んで、大河ドラマの内容や人間伊能忠敬が見えてきたような気がした。

八月になり、ようやく加藤が再合流する。
当時の資料から、五十五歳の伊能忠敬が、一日平均四十キロを歩いていたことが分かり驚いた。忠敬の「測量日記」には、各地の星々の高度を測り、その土地の緯度を算出している。そこから、緯度1度分の距離を算出しようとしたのである。
浅学の凡人役人達には分からなかっただろうから、測量旅行の認許も出たといえそうだ。

測量の旅は、第八次にまで及び、六十を超えた忠敬には過酷なものとなった。
そして、副隊長の天文方や伊能家を継いだ長男の景敬が病死して、忠敬は悲嘆に暮れた。

三人は飲みながら、伊能忠敬の全国旅が、各県のご当地を宣伝するいい機会だと思い至って、俄然やる気が出て来た。

ところが、加藤が尤もな疑問を口にする。「緯度1度の距離は、二次調査で分かっていたのに、なぜ測量を続けたのだろうか?」と。

文政三年十二月 伊能忠敬の四番目の妻、エイの話

伊能忠敬は、よく怒ったらしい。細かいことにいちいち口を出し、自分の思うようにならないと気が済まなかった。
エイが言うには、「それなのに、あのひとの周りにはたくさん人が寄ってきました。」
人に厳しい反面、気に入った人にはとことん面倒を見たのだという。

ある日、ひとりのお弟子さんが、ひどく叱られて、「出ていけ!」と言われるのを聞いたときに、あたしもいつかこうやって捨てられる日が来るんだろうなって考えたらしいが、現代では考えられない女性の気の持ちようだなと思った。
そのエイさんは、自分から家を出たらしい。

伊能忠敬は生きている?

企画書造りは順調に進み、今は「伊能忠敬没後二百年」というタイムリーな時期になっていた。
食堂で食事をしていると、企画調整課長から「今度NHKに出す企画書が採択されなかったら、香取市としては撤退する。」と言われた。

脚本家の加藤は、大河ドラマのプロットが書けず、もがいていた。
調べれば調べるほど、大事を成し遂げたという印象よりも、苦労して製作した地図が燃えてなくなった「無念」という印象が強くなった。
なぜなら、幕府に献納する「大日本沿海輿地全図」を完成させることが出来なかったからである。
忠敬亡き後、最後まで地図を仕立て上げたのは、高橋景保であり、忠敬の内弟子と天文方の下役たちであった。

加藤はあらためて一冊の資料本を広げて年表を確認するとこの記録があった。
・文政四年七月 「大日本沿海輿地全図」完成。幕府に献上される。
・同年九月 伊能忠敬の死、世間に公表される。
どうやら、地図ができるまで、伊能忠敬の逝去を隠していたようだ。

文政四年二月 伊能の上司、高橋景保の話

伊能忠敬は、西洋の天文学に精通した高橋景保の父、高橋至時(よしとき)に弟子入りしたとき、忠敬は五十三歳、景保は十三歳であったという。

高橋至時が四十一歳で亡くなり、二十歳の子、景保が天文方に任ぜられた。
そして、西国の測量を六十になる忠敬に任せたのである。

最終プレゼン会議まであと十九時間

いよいよ、あとは製本するだけとなった香取市役所では、加藤の到着を待ちわびていた。
ようやく、十五分遅れで到着した加藤は、意外なことを伝えた。
「すみません。できませんでした。」
そして、先の章で資料内で発見した忠敬の死が、地図完成まで公表されなかったことを、池本と木下に話した。

加藤は、なぜ忠敬の死の公表を遅らせたのかということについての解釈を述べた。
それは、高橋景保のみならず、友人、弟子たち、天文方下役、大崎栄など、地図の仕上げに関わる者、皆がそうしたいと願ったからだという。
推測するに、忠敬の死が公表されれば、それこそ地図の完成を見ることなく、このプロジェクトは中止させられただろう。そうならないためにも隠したのであろうと考えられた。

封筒の中のプロット

忠敬の死を公表すべきか悩んだ景保は、父、至時(よしとき)の墓のある、上野の源空寺へと向かった。
そして、和尚に忠敬の死を公表しない決意を伝えた。和尚は「知られたら命はないぞ」と忠告しつつも、至時の横に名もなき墓を建て、地図が仕上がったら名を刻もうと言ってくれた。
だが、忠敬の臨終を看取った、名医の梅安や行きつけの蕎麦屋らを黙らすのは大変であった。

内弟子や下役たちの関係がぎくしゃくしているとき、友人の綿貫善右衛門の発案で、エイと若い娘のおとよがやってきて、掃除や炊事を手伝うようになって、御用所内の雰囲気が良くなっていった。

その一方で、幕閣らからは、地図はまだかと催促されるのを、景保はなんとかかわしていたが、勘定奉行が逝去し、後任についた梶浦伊勢守から伊能忠敬に召喚状が届いてしまった。さあ、どうする!

景保は、翌文政四年一月、梶浦伊勢守の邸を訪ね、度々の召喚に応じえない伊能忠敬の代わりに詫びに行ったのである。
いつ会えるのだ、と追い詰められた景保は、七月と答えた。帰って伊能隊に告げたときは、みな石のように黙り込んだ。それでも頑張るのが日本人だ。

六月、ついに「大日本沿海輿地全図」ができあがり、上様に献上する運びとなる。
そして、将軍・徳川家斉公が現れた。名だたる重臣たちの末席に梶浦伊勢守も座していた。

して、伊能忠敬なるものはどこにおる?
ここには参りません。
どういうことか、その方、事と次第によっては・・・

景保は、隣の大広間で伊能忠敬が待つといい、必死の視線を家斉公に向けると、
よかろう、開けよ。
江戸城一の大広間に全三十巻二百十四枚の「大図」、「中図」八枚、「小図」三枚がすべて披露された。その光景は、将軍をも圧倒した。

しばらくのち、将軍は、見えない(はずの)忠敬に語りかけた。
余が見えるか。若くはない身で、大儀であったのう・・・余は満足じゃ。・・・ゆっくりと休め。

景保と読者の自分も嗚咽を堪え切れなかった。

最終報告

以上の話を加藤から聞いた池本と木下は、できてるじゃないですか!というが、加藤は出来ていないという。

書けたのは、「大河ドラマの『高橋景保』」です。伊能忠敬は無理でした。

ただ地球の大きさを知りたくて、十七年地球一周分の距離を歩いて測量したのに、完成した地図を見ることなく死んでいった人の話を大河ドラマには出来なかったという。

なんと、加藤のプロットは、伊能忠敬の臨終のシーンから始まるという。必死に書いて読んでみたら、伊能忠敬の話ではなく、伊能忠敬の夢を叶えようとする高橋景保たちの話だったということだ。

高橋景保は、大阪の人らしい。
池本は、このプロットを大阪に持っていこうという。

池本主任! 明日の最終会議どうするんですか。

立川志の輔さんのプロフィール

富山県生まれの落語家、司会者。1983年、立川談志に入門。90年、真打昇進。古典から新作まで幅広い芸域で知られる。新作落語「歓喜の歌」が映画化。芸術選奨文部科学大臣賞受賞、紫綬褒章受章(本書の紹介文より)

著者の作

新作落語「歓喜の歌」が映画化。2019年、岩合光昭監督の映画「ねことじいちゃん」では初主演を果たす。NHK長寿番組「ガッテン!」は27年間司会者を、文化放送「志の輔ラジオ 落語DEデート」ではパーソナリティを務める。(本書の紹介文より)

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