人生の流儀 田所稔

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萩本欽一さん コメディアン

はぎもと・きんいち 1941年東京都生まれ

欽ちゃんは、74歳から駒沢大学で勉強しているらしい

中学生まであがり症だったのに、おうちの借金を返すために、東京浅草の東洋劇場で働いたそうだ。運と無欲でコント55号がスタートし、弟子の車だん吉の一言で、「欽ちゃんの~」シリーズが大ヒット! そして小堺一機を世に送り出した。

モットーを本文から拾ってみると、

・みんなが寄るところには行かない(たくさん人が集まっているところには運がない)

・嫌だとおもったことも、とりあえずやってみる(大切なのは勇気)

・人に教える立場になったら、正解は教えない。(本人には達成感を持ってほしい)

辛抱の上に花が咲くという欽ちゃん。私もまだまだ勉強しないといけませんね。

加古里子さん 絵本作家

かこ・さとし 1926年福井県生まれ

 代表作の一つは「からすのパンやさん」、40年後に出版した「からすのてんぷらやさん」

人間の社会は互いに助け合い、補い合って成り立っていることを伝えたかったそうです。

 近視のため、軍人の学校を受験することもできず、冷たい先生方に反発し、東京大学工学部に進学した年に終戦を迎えたそうです。

 特攻に行けずに、死にはぐれたと思った加古さんは、「せめて少しでも子どもたちの役に立つことをしたい」と考え、人形劇団ブークに関わり、会社員を続けながら社会救援活動に参加したという。

 そこで、子どもたちに「紙芝居」をして見せたのが、絵本にたどり着くきっかけだ。  絵本の「だるまちゃん」シリーズのヒントは、ソ連の子供向け雑誌にあった「マトリョーシカちゃん」だと言う。ブログのネタのヒントになるかも知れない。

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高村薫さん 作家

たかむら・かおる 1953年 大阪市生まれ

子どものころからたえず、戦争のことを考えていた。

そして、世の中にはなぜ貧しい人とお金持ちがいるのか、と考えていた。

阪神大震災を体験してから、エンターテイメントから純文学に転向した。 作家デビューしたのは、会社の仕事を家に持ち帰るために買ったパソコンで、仕事以外のプライベートなことを書き溜めたものを誰かに読んでもらいたくなって、公募賞に応募したことがきっかけだそうです。そんな公募賞に応募できるレベルのものを、仕事の合間に書けるというのは、当初から才能があったとしか思えない。ましてやミステリーですし。

稲川淳二さん タレント、工業デザイナー、怪談家

いながわ・じゅんじ 1947年東京都生まれ

怪談って、ただのホラーじゃないのかな?

怖いだけじゃない、優しい世界だとのことです。

特攻隊員の母親の話は、怖いというより悲しい感じです。

怪談のネタ集めも、全国を回られるとのことで、結構大変そうです。

とあるデザイン研究所で修行して、工業デザイナーになったとき、ひょんなことからテレビの子供番組に出たあと、友人の結婚式の司会をしたときに、ニッポン放送のラジオパーソナリティにスカウトされたらしい。 稲川氏曰く、怪談というのは昔から語り継がれた話で、生活の思いや人のやさしさもあるし、なんといっても楽しいんです、と。いやいや、多少分からなくもないですが、私にはまだその余裕がありません。

降旗康男さん 映画監督

ふるはた・やすお 1934年長野県生まれ

 映画「少年H」の監督さん。そういえば、神戸の話でした。当時私は妹尾河童さんが書いたその小説の上下巻を購入したのを覚えています。分厚くて読了できなかったことも記憶しています。

 そしてもうひとつ、特攻を描いた映画「ホタル」の監督さんでもあります。

 わたしも日本人として、行っておかねばと、2014年広島・2015年長崎に次いで2019年に鹿児島の知覧に足を踏み入れました。

 映画は見ていないのですが、知覧特攻平和会館でみた零戦や、数々の写真は胸に突き刺さりました。

 その後、降旗さんは、東大仏文科を経て東映に入社、数年で助監督になられたようです。

そして偉人伝のような映画は撮りたくないと言っていたため、回ってきたのが、やくざ映画で、高倉健さんとの出会いがあったとのこと。人生は思うようになりませんが、筋を通していれば、いいこともあるのかも知れません。

 演技指導については、しないそうです。

思うことと言葉、言葉と言葉、言葉と演ずる身体、いずれも伝わるときに段差があります。監督としては観客代表として見て、こういうことかと納得出来たら、それがOKだと思っている

 とのこと。これは、映画監督を目指す人には参考になる言葉ではないでしょうか。

 そして、「鉄道員」を振り返って、

映画には言葉による説明がありませんから、見ている人が、自分の人生と対照しながら受け取ってもらうしか、作品としては完結しないものだろうと思う。  と語られています。

市原悦子さん 女優

いちはら・えつこ 1936年千葉県生まれ

 反戦について語られています。そして、阿部内閣の集団的自衛権行使の容認に対して、戦争につながるこの容認に賛成できないとおっしゃっています。中学で演劇・芝居に出会われた。自由が好きな市原さんは、京都・平等院の天女の彫刻がお好きだとのこと。そして子供が自由に遊べる場を、大人が戦争や原発事故で奪っていると嘆かれています。

 さて、大人気となった「家政婦は見た!」ですが、原作は松本清張さんなんですね。結構好きな作家さんですから、ドラマをちゃんと見ておけばよかったなと思います。誰かリニューアルしてくれないですかね。

 もうひとつの代表作?は、「まんが日本昔ばなし」ですよね。すごいと思ったのは、台本が届くのが約三日前はいいとして、配役は収録当日告げられていたというから大変だったでしょう。

 放送を終えられて、「人間てちっぽけだ。生きるって残酷だ」と感じられたそうです。  そして、言われたことは、「役になりきる」なんてできない。その人を理解し、寄り添い、一緒に生きるという感じだそうです。演じた役のかけらが体のあちこちの細胞に少しづつ残っているのだと。わかる気がします。我々の人生もそうなんだろうなと思います。経験したことは、役に立つというよりは、体のあちこちの細胞に少しずつ残っているという感じですね。

倉本聰さん 脚本家、作家、劇作家、演出家

くらもと・そう 1935年東京都生まれ

 3.11 東京電力福島第一原子力発電所の事故を題材にした舞台を演出された。

 「ふるさと再生」と口ではいいながら、東北被災地の始末もつけないで原発再稼働などと言っている政界・財界のお歴々は、「ふるさと」という言葉の重みが本当にわかっているのでしょうか、と嘆いて、いや憤っておられます。

 代表作ドラマの「北の国から」が再び注目をされています。その中の一節に、黒板五郎の息子が「電気がなかったら暮らせませんよッ」というと、五郎が「夜になったら寝るんです」という。書かれているように、60年代に子供だったわたしも、夜8時ピッタリに寝ていました。

 倉本さんのアイデアに、農業人口はどんどん減り、高齢化しているので、徴兵制ではなくて、徴農制をやればよいというのは、なかなかいいと思いました。

 1984年、倉本さんが49歳のときに、シナリオライターと俳優を養成する「富良野塾」を創設された。住むところを自分たちで創るところから始められたというのがすごい。

知識と金で前例に倣ってつくるのが作だ。金をかけないで前例がないものを智恵で生み出すのが創だ。

 塾は26年続き、375人が巣立ったそうです。

 そのなかの倉本さんの教えをいくつか紹介すると、

・木は根によって立つ。されど、根は人の目には見えず

・物語の根っこは、登場人物の創造、とくに欠点を拡大することで個性が光る

・履歴は物にも必要

・自分が直接見、聞き、嗅ぎ、触り、体験することを通して発見すること

・せりふの句読点、語尾にも意味がある

 最後に、お父様の影響が大きかったと書かれています。4、5歳で宮澤賢治を音読させられたり、日本野鳥の会と縁を持たれたりされたそうです。そして、行動理念をひとつ

・まず跳ぶ―。しかる後、考える だそうです。

鈴木瑞穂さん 俳優

すずき・みずほ 1927年 中国東北部出身

 日本からお父様が北朝鮮に教師として赴任され、そこで生まれ育ち、16歳で広島の海軍兵学校へ入学されたときに、原爆投下を目撃するという、ものすごい体験をされています。

 終戦後、日本がいかに井の中の蛙であったかを知り、京都で見たチェーホフ作の演劇「かもめ」で、人間らしい感情を知ることになったのです。演劇を見て、そのまま帰らないところが、運命の分かれ道です。楽屋を訪れた鈴木さんは、宇野重吉さんと出会い、俳優の道へ。

 1952年の初舞台「五稜郭血書」は、東京の新橋演舞場から71年の劇団民藝退団までの第一幕、そして1972年に演劇集団銅ら(らは、金偏に羅)を創立されてからが第二幕でしょうか。

 初舞台から63年。たどり着かれた境地がこれ、

 俳優は、「その人に非ずして、その人を憂う」と書く。役に近づこうともがくのが演技だと思います。役者は、その中で自分の狭い人生体験を超え、変化できる。個性とは、自分を磨いてなお残るものだと思います。

 人生87年、芝居63年でも、「人間って何だろう?」という問いを繰り返してきたそうです。

 人間とは、本来すばらしいものだ、と語られながらも、思い返されるのは、あの原爆投下。すばらしいはずの人間をゆがめるものは何なのか。鈴木さんはずっと「なぜ」を問うておられるそうです。

 おわりに、健康法を語られています。毎朝2時間、8キロのウォーキングとのこと。これはなかなかまねできませんが、わたしも定年後は、1時間くらいはウォーキングせねばと考えております。

村山斉さん 理論物理学者

むらやま・ひとし 1964年東京都生まれ

専門は「素粒子」であるが、宇宙の話が好きな人。この学問と宇宙の学問を結びつけたのが「ビッグバン」理論らしい。

宇宙が膨張していることが分かった。とすれば、過去に遡ればどんどん圧縮して、最後に1点につぶれてしまう。

この1点が、素粒子で、この小さな火の玉がバーンと爆発するように膨らんで、現在の宇宙になった。これがビッグバン。

千葉市柏市にある研究所勤務。ここで、数学者・物理学者・天文学者が一緒に宇宙の解明に挑んでいるらしい。

・宇宙の解読・・・宇宙の年齢は138億年って、なんで分かっているんだ!

・ビッグバンは再現できる!?・・・加速器を使う。もう分からない世界!

・万物は原子で出来ていない・・・原子は宇宙の全質量の約5パーセントしかない!?

・万物(宇宙)の残り95パーセントは、「暗黒エネルギー」と「暗黒物質」という謎の物質らしい。それでは、ほとんど何も分かってはいないのだ!

 多次元宇宙

理論物理学者の方々は、こんなものが存在すると、大真面目に考えているという。

次元とは動ける方向のこと。これも初めて聞いた気がするが、分かりやすい気もする。

現在有力なのは、「9次元」って、なんだ!? しかも時間を加えると10次元。

(素粒子は、人間には見えない小さな空間を自由に動いているという理論) ほんの少し、宇宙について知識が増えたような気もする。

田沼武能さん 写真家

たぬま・たけよし 1929年東京都生まれ

肖像を撮り続けているとのこと。そのような写真家がいることは知らなかった。

顔を撮ることで、その人の考えや人間史(本質)を写したかったとのこと。

事前に撮る人の著書を読み、作品を見た。そして本質に迫った。

田沼さんは、就職した会社におられた日本を代表する写真家の木村伊兵衛の「押しかけ助手」になったといいます。世に出る人は、このような苦労をしているものです。

そして、名人のことば、

  • 写真にほれなければ撮れない
  • 被写体に語らせろ。”自分”が出ちゃだめだ
  • お前は頼まれた仕事をこなしているだけだ!すぐ飽きられ、ガムみたいに吐き捨てられるぞ 自分の写真を撮れ!

そして、田沼さんは「自分のテーマ」を発見しました。「すばらしい子供たち」です。

 その次の被写体は、ユニセフ親善大使となった黒柳徹子さんでした。

黒柳さんは、タンザニア、リベリアやコンゴなどを訪問し、その惨状と向き合われたようです。子供らは、ひどい目に合いながらも、必死に生きようとします。自殺などしないのです。日本と何がちがうのでしょうか。 田沼さんは、黒柳さんと行動をともにして、子どもたちを撮り続けています。

山川静夫さん 元NHKアナウンサー、エッセイスト

やまかわ・しずお 1933年静岡県生まれ

静岡浅間神社の神主の息子さんだそうです。生まれたときから持っていらっしゃる!

◇学生時代

学生時代は歌舞伎にのめり込み、あまり学校には行かれなかったようですが、このことが、のちの人生にも大きく影響することになります。

歌舞伎座の感激料の安い三階席から「〇〇屋!」と大声を掛けていたら、「大向こうの会」の会員にしてもらえたとか、その縁で芝居がはねたあと、ご隠居さんたちに酒を飲ませてもらったとかで、大学四年間は義理人情の修業をしたようなものだとか!

いい言葉の説明がありました。

僕は「稽古照今」という言葉が好きなのですが、「稽古」というのは古いことをよく稽(かんが)へる、という意味です。日本で一番古い『古事記』の序文には、「古を稽へて今に照らす」とあります。時間をかけて芸を磨き、今に照らすことが大事なのです。 

◇アナウンサーの修業時代

祖父に勧められたこともきっかけとのことですが、NHKに合格したときお母さんは、初めてお父さんの涙を見たそうです。

ここでまたいい言葉の説明がありました。

仏教では、「慈悲心」の「慈」は父の愛で苦を抜き去ってやる愛、「悲」は母の愛で楽を与える愛だそうです。

陰で応援してくれていた父のことを知ったそうです。

そのあとは、お決まりの地方局勤務でも歌舞伎の知識を生かして活躍され、12年後に東京勤務へ。数々の名司会で人気を集め、ついに紅白歌合戦の大司会者へとつながります。

◇NHK退局後

山川さんは、アナウンサーでは初めての専務理事待遇となったのち、94年にNHKを退局されました。

66歳で脳梗塞発症され、失語症を乗り越えられたそうです。

振り返ってみると、歌舞伎のおかげでいい友達にもめぐまれたとのこと、人生を豊かにするには”貯人”が大事らしいです。 わたしも、定年が近づいてきましたので、お金ではなく友人に恵まれるよう生きていきたいものだと思います。

橋田壽賀子さん 脚本家

はしだ・すがこ 1925年韓国ソウル生まれ

わたしは、橋田さんのことは良く知りませんでしたが、これを読んでとても好感を持ちました。

◇終戦後食糧難で山形へ

日本人は全員、負けたら死ぬのだと思っていました。

この言葉は、目から鱗でした。それで最後まであんなに抵抗して、ついに原爆を落とされるまで突き進んでしまったのか、と。

そして山形で聞いた話が、『おしん』につながります。

仕事でも私生活でも、「二流でいい」が信条です。

これは、意外ですが私も似たところがある。車を買うときもトヨタでなくてホンダや日産、三菱だったり、ゲーム機もプレステではなくてドリキャスだったりして、その度に妻からどうして1番のを選ばないのかと言われてしまいます。これも好感度アップの要因です。

◇結婚しなきゃ書けなかった

女性蔑視が横行する映画界で、10年我慢されたそうですが、脚本を書く機会が与えられないとみて、松竹を退社し、狙いをテレビ、小説に向けられたのは結果的に良かったようです。でも、なかなか人生そううまく行きませんので、凡人の私にはとうてい真似はできないことです。

40歳でTBSのプロデューサーと結婚され、テレビ界での扱いが変わると運命が変わり出します。ご本人は好きになって結婚されたので、権力狙いではないのですが、世の中みんな現金なものです。

結婚されたことで、嫁姑の苦労も味わい、『おしん』が社会現象になるほどにヒットしました。

◇自分の脚本、演技で変化

印象に残る俳優は沢村貞子さんで、想像していたよりはるかにインテリだったそうです。

そして、このエピソードもいいなと思いました。

杉村春子さんは、他の女優さんがセリフの語尾の「ね」を飛ばした時に、「作家はちゃんと意味をもたせて書いているんだから、ちゃんとおっしゃい」と注意してくれました。胸がスッとしました。

これで、杉村春子さんへの好感度もアップ!です。

とは言いながら、こんなことも書かれています。

俳優さんの演技によっては、自分の作品ではないような、思いがけないものが立ち上がってくることがあります。それを見るのが楽しみで、自分の脚本にはこだわりませんでした。

わたしが脚本家であっても、このように考えるような気がしますが、作品によるのではないでしょうか。 つい最近見た「半沢直樹」での歌舞伎役者たちの暴走?を思い出しました。

益川敏英さん ノーベル賞理論物理学者

ますかわ・としひで 1940年愛知県生まれ

2008年にノーベル賞を受賞されました。

急に忙しくなり、年に90回も講演されたそうです。

◇「二足のわらじ」を継いで

恩師の名古屋大学の坂田晶一先生の研究室の信念だそうです。

そのため、平和運動や労働組合活動をずっとやってこられたとのこと。

第一次安倍政権で、戦争法案を強行しようとした際には、「安全保障関連法案に反対する学者の会」の発起人となり、デモもされたようです。

◇素粒子研究の巨人たちと

益川さんは、大学・大学院時代から京都大学理学部助手時代に、いろいろな巨人たちと巡り合われているようです。湯川秀樹博士やノーベル賞共同受賞者の小林誠さん、シカゴ大学の南部陽一郎先生などです。

これも偶然とかではなく、ちゃんと実力があってのことなのは疑いの余地がありません。 益川・小林論文のクォークは、6つあるという仮説を、素粒子の国際会議で南部先生が支持してくださったとき、うれしすぎて飲み過ぎたという話は、酒好きの私としては、なんとも微笑ましく思われるのでした。

那須正幹さん 児童文学者

なす・まさもと 1942年広島県生まれ

◇「ズッコケ」は平和の申し子

児童文学の、それまでの型を破ったのが、那須さんでしょう。よく知りません (;^ω^)

子供の成長を描くのが当然であった時代に、子どもがわくわくして読みたくなるエンターテイメントなものを書くようにされたようです。

そして、ズッコケ三人組はずっと6年生で成長しない。これってサザエさんも同じですね。

◇「誰もやっていないものを

被爆者である那須さんは、原発建設反対の活動もされています。こどものころは、小説をほとんど読まずに育ったとのことですが、わたしも宿題以外の読書などした記憶もなく、テレビを観て育ちました。

そうやって新風を吹き込みながらも、やはり戦争を題材にした架空のお話も書かれるようになったようです。子供のころの記憶が大きく影響しているのではないでしょうか。 これからもシリアスとエンタメともに創作されていくことでしょう。

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