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戦争を知っている最後の政治家 中曽根康弘の言葉 激動する世界情勢で岐路に立つ日本はどう進むべきか、戦争に従軍し敗戦を迎えた経験を持つ中曽根康弘氏の日本への提言から感じ取りたい。

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拙評

目次

第一章 リーダー論

 時代を超え、いつの時代にも政治家に求められるもの

 ・目測力:事態の推移を予測し、目標達成方法を把握する能力

 ・説得力:内外に対するコミュニケーション能力

 ・結合力:人材と情報、資金を集めて結合する能力

 ・人間的魅力:協力者を動かし、能力を発揮させる根本的な力

 これらの能力を備えていたと中曽根氏が言うのは、

 レーガン、ゴルバチョフ、鳩山一郎である。

第二章 政治家としての原点

 中曽根氏の故郷のこと、実家の家業のこと、子どものころのこと、母のこと、自身の海軍での経験などが、中曽根氏の心の中に、愛国心を育み、敗戦、焦土と化した東京が、彼を政治家へ進ませることになった。

 日本を占領軍から取り戻すため、政治家になる決意をした中曽根氏が立ち上げた青雲塾の宣言文に、感銘を受けるだろう。

 洋々たる朝が我等を待っている。この暁の風雪を突破したら、やがて太陽は妖雲を払い燦然たる慈光を万物に浴びせるであろう。

 昭和の革新、明治の維新、それらを貫く八千万民族の生命力、駸々として進む、脈々として流れる民族の生命力は、何物もこれを阻止することは出来ない。

 今こそ我等は敗北民族の悪夢を払い旧日本人と訣別し、日本人の為の新たなる日本と全人類の為の正しき世界平和を打ち樹てるため、歴史の本流を開拓し昭和革新の人柱となることを誓おう。

 我等は今や風説の嵐に向う。嵐よ来れ。敢然として乗り切って、祖国を本然の姿に戻し偉大なる発展の礎を築こう

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第三章 戦後政治、激動の時代

 政治家になった当初は、中曽根氏は、吉田茂を間近で見て、アメリカにおもねる様子などから、吉田茂を批判もしている。

 中曽根氏は、「反吉田茂勢力」「反共産勢力」「自主憲法制定」「再軍備」を訴えて民主党から出馬し、当選した。

 彼は、GHQを動かすために、GHQと近い吉田茂にわざと突っかかった。アメリカの方が戦勝しても、冷静というか合理的というか、そんな感じが見て取れる。

 中曽根氏がよく「風見鶏」と揶揄されていたが、それは中曽根氏の哲学であったという。

中曽根によると、以前から尊敬していた徳富蘇峰が住んでいた熱海伊豆山の晩晴草堂を訪ね(中略)、そこで中曽根は蘇峰から”風見鶏のすすめ“を受けたという。

 対局さえ失わないなら大いに妥協しなさい、との教えだという。この言葉は中曽根氏の人生観を左右し、これ以降、妥協やまとめ役を重要な仕事と思うようになったという。

 戦後の1949年、道徳再武装の世界大会に出席し、敗戦国の西ドイツがNATO軍の一員としてソ連軍と対峙している現場を見て、

日本がいつまでもアメリカ軍の世話になっていいわけがない、早く日本も自衛する力を持ち、”有事駐留、平時非駐留“という形で同盟条約を結べないものかと思い至ったのである。

 ついに、1951年、マッカーサーの罷免に成功?し、9月にはサンフランシスコ講和条約(対日平和条約、対米安全保障条約)が締結され、完全ではないが、日本は主権を取り戻したのである。

このようなエピソードを読み、あらためて中曽根氏は、戦後の日本を真剣に考え、その礎を作った大変優秀な政治家であったという印象が強くなったのである。

第四章 戦後日本、「五十五年体制」時代

 日ソ共同宣言に承認を与えるものでは断じてない

  この当時、日ソはまだ戦争状態が継続していたため、万一のソ連の日本侵攻の可能性があったことや(今のウクライナは決して他人ごとではない!)、米ソからも独立し、国際社会での日本の立場が強化されることを優先したための宣言であったということである。

 ロッキード事件は、法治国家として疑問の残る事件だった。

 中曽根氏は、キッシンジャーとハワイで会ったときに、次のように語ったことが書かれています。

ロッキード事件は間違いだった。不幸な事件であると同時に、司法処理も、法治国家という点から見て疑問の残る事件だった

 そして、司法が世論に押されて、「法の番人」が揺らいだと指摘されていることは、結局、人間は人間に影響されるものだということを感じずにはいられないし、正しい判断とは何か、ほんとうにできるのかという疑問すら感じる。

 材木屋の次男に生まれた地金通りにやれば、捨てるものもなければ心配することもない

 三木総理が追い込まれたとき、なんとか自民党分裂を回避させ、責任を取って幹事長の座を降りたとき、政界の黒幕的存在の四元義隆さんに、“中曽根さん、あんたは国家の大事な仕事をやっているんだから地金でいけ”と言われたという。

 幹事長だとか、大臣を何回やったとか、そんなくだらないものはない、材木屋の次男に生まれた地金通りにやれば、捨てるものもなければ心配することもないと教えられたそうです。この言葉は凡人の自分が聞いても、どうしてこのように解釈できたのかは分かりません。

 大平さんが、亡くなられて、鈴木内閣のときに行政管理庁長官に就任し、いわゆる「臨調」を立上げ、会長に土光さんを立てた時点で、中曽根さんのやることは決まって行ったのだろうと推測します。

第五章 「総理大臣」中曽根の本音

 一九八二年十二月三日、中曽根総理大臣は、所信表明演説を行った。

 行政改革、財政改革、教育改革を進めるため、「国鉄再建対策推進本部」を内閣に設置した。

犠牲になる人もいれば、恩恵を受ける人もいる。犠牲になる人への手当てをつぎつぎとやっていかなければ改革は成功しない。二段、三段構えの考えで改革をしていかなければなりませんでした。みんながみんな賛成するわけではない、そういうものをある程度のりこえていかなければ改革はできない。そういう強い意志をもってやりました。

 賢い人が、最高の権力を得たからこそ、国鉄の改革は出来たのではないかという思いです。私も年齢を重ねて、この本を読み、中曽根さんの偉業に溜息をついているところです。

 そして、外交においても、どの内閣もやっているとは思うが、外国を訪問する前に、その国との大きな課題に一定の進展をさせてから行くという用意周到さもあったし、国内だけではなく、世界全体での日本の位置づけを考えて、日本をアピールしていったようです。

 中曽根政権が誕生したときは、日米貿易摩擦があり、経済戦争の一歩手前であった。アメリカの対日貿易赤字が膨らんでいました。

 日本は、これに対し譲歩し、輸出の自主規制を続けたが、アメリカからの圧力はやまなかった。

 中曽根さんは、五か国蔵相会議での「プラザ合意」を受け入れ、円高を容認した。

 これにより、企業の外国進出が増え、日本経済はさらに強靭になったという。

第六章 日本への提言

 “政治家というものは、歴史法廷の被告席に立たされる”

 部下の不祥事で、自民党を離党する羽目になるも、請われて復党を果たし、湾岸戦争では海部首相の特使としてフセインと交渉し、日本人人質72人を解放させたが、その後、小泉総理から政界引退の引導を渡された中曽根氏が語ったそうである。

 “東京裁判は勝者が敗者を裁いたものであり、戦争の責任は全て日本にあり全て日本が悪いという東京裁判史観には違和感がある”

 第一次世界大戦後の日本の状況と、現在ウクライナに侵攻しているロシアの状況が似ているような気がする。

 以下の状況は、そっくりではないか。このあとロシアがどうなるかは、この歴史の結果が語っているような気がしてならない。日本は、痛い目にあっているのである。

1920年に国際連盟が発足し、日本は英国、フランスとともに常任理事国となった。しかし、昭和に入り、満州事変、満州国建国に至る中国大陸への進出の中で徐々に国際的に孤立し、追い込まれる形で33年に国際連盟脱退を表明。国内では米英などから石油などの資源の輸入を止められ、経済的に厳しい状況に追い込まれていった。(中略)混迷を極める国内政治と対外摩擦の中で、米英開戦に突入した

“東京裁判史観には違和感がある”と語った中曽根氏の考えと同じような証言があるという。

・東京裁判に加わった多くの判事は、裁判の不当性、違法性を証言している。

・マッカーサー自身さえも、「日本の戦争は自衛戦争だった」と証言をしている。

「自衛の戦争」だったにもかかわらず、その指導者たちを死刑にしたのである。

上記の歴史的結果になぞらえて考えると、ロシアが戦争に負け、指導者であったプーチン大統領は裁判で死刑になることになる。

逆にウクライナが負ければ、ゼレンスキー大統領が死刑になるのだろうか。

中曽根氏は、産経新聞の寄稿にこう書いているという。

政治にとって、歴史の正統的潮流を踏まえながら大局的に判断することの重要性を痛感する。歴史を直視する勇気と謙虚さとともに、そこから汲み取るべき教訓を学び、それをもって国民、国家の進むべき道を誤りなきように導かねばならない。政治家は歴史の法廷に立つ。その決断の重さの自覚無くして国家の指導者たり得ない

“国民自らがつくり上げる初めての憲法を目指し一層の奮起をお願いする”

これこそが、“我々が掲げる憲法改正の本質的な意義であります”

その気持ちは分かるような気がする。

鈴木哲夫さんのプロフィール

1958年生まれ。早稲田大学法学部卒。政治ジャーナリスト。テレビ西日本報道部、フジテレビ報道センター政治部、日本BS放送報道局長などを経て、2013年6月からフリージャーナリストとして活動。長年にわたって永田町を取材し、与野党問わず豊富な人脈を持つ。テレビ、ラジオの報道番組でコメンテーターとしても活躍している(本書の紹介文より)

著者の近著

「政党が操る選挙報道」、「最後の小沢一郎」、「ブレる日本政治」、「安倍政権のメディア支配」、「誰も書けなかった東京都政の真実」など多数(本書の紹介文より)


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