~図書館での邂逅~
私は、いつものように図書館へ行き、いつものようにランダムに本を選出した。できるだけきれいで手垢の付いていないもののなかで、タイトルに惹かれたものを手に取った。
それがこの本である。狩りの時代という言葉はから、おやじ狩りなど弱者にたいする小説だろうと感じ、時代と付いているので最近のSNSでの炎上的な内容かと想定して借りたのだが、そうではなかった。
作者のことを調べて、少し驚いた。すでにご逝去されていた。
わりと推理小説などが好きなわたしにとっては、他人の日常の話を読んで何かを感じるという読書は苦手かもしれない。まあ、別の人になり切って日常を忘れるというのもいいものだが。
そうは言っても、せっかく借りた本は読了したいと思っている。
少し読み進めてみると、前半は淡々と家族や親族の話で進み、登場人物が多いというか、関係性がつかみにくい。
さらに、時代が行ったり来たりして、誰が何歳なのか年齢の上下関係がよく分からない感じになり、読了する自信がなくなったので、ネットであらすじを先に読むことにした。
~あらすじ~
なんとなく、分かったところで、読書を再開した。
書評を書かれている方は、苦も無く読まれたのであろうが、わたしにとっては少し工夫が必要だった。
とにかく、人間関係が分からないと、理解が止まってしまうようなので、私は人物相関図を完成させることを別の楽しみとして、謎解きでもするように、人間関係が記述された部分から推測して、人物相関図を書いていくという工夫をした。
そのおかげか、なんとか読了することができた。
出来上がったものがこれ。一度しか読んでいないので、間違いがあるかと。ご了承ください。
人物相関図メモ
ヒトラー・ユーゲントへの思い、あこがれが、戦後になって間違いだったのかと気付いたこと、日本はそんなナチス・ドイツと同様の思想を持っていたこと、いまでもそんな差別が残っていることについて考えさせられた。
また、フテキカクシャということばひとつで、これだけの小説が書けてしまうのがすごいことだと思う。
最後はなんだろう。よくわからないが、倒れた永一郎の意識とその中で、カズミが語っているような感じ。
その意識の中で、原子力発電所の爆発というのも少し唐突な気もするが、原子力のことも言いたかったのだろう。
核物理学者であった永一郎の言葉が記憶にのこる。
「わたしはたまたま、核エネルギーの研究に取り憑かれ、一生を捧げたいと願いました。無限増殖する核エネルギーのイメージに、若かりしころのわたしはどれだけ魅了されたことか。遼一郎ともその友人とも時を忘れて語り合ったものです。しかし、管理の問題は無視しておりましたし、後始末をどうすればよいのか考えていなかったのです。そんなずさんな態勢の研究はひょっとしたら、原子力の研究でしかあり得ないのかもしれません。なんとなくまわりが解決するのだろうと思い込んでいました。」
この言葉は、いまの福島の状況に至った理由を簡潔に示しているような気がした。