『オブジェクタム』 高山羽根子 あらすじ 感想
はじめに
Objectumとは、どういう意味だろう。
調べると、「対象物」、あるいは「目的語」。
西洋哲学では、「字義どおりには〈向こうに投げられてあるもの〉という意味であり,中世や近代初期には,外部にある事物が心なり意識なりに投影され,いわば表象されてある状態を意味していた。」だそうだが、よく分からない。。。
目次
第一話 オブジェクタム 5
第二話 太陽の側の島 107
第三話 L.H.O.O.Q. 149
あらすじ
第一話 オブジェクタム
大人になったほくが、子どもの頃住んでいた町にきて、自分の記憶よりずっとしょぼくれた町なのに驚くのであるが、よくにた経験を私もこの一年以内にしたところだったので、その感覚には共感できる。
主人公が小学校時代を思い出して、物語る。
登場人物
現在
・主人公:中野サト(男)
・祖父の静吉
・父母
小学校時代
・主人公の友人のカズ
・渋柿:俳句の先生、手品もできる
・タクヤ:幼稚園の先生
・山本ハナ:サト君の1つ上の学年
・山本ユメ:ハナの姉(ピエロみたいに化粧が濃い女子学生)、中学生
そのころ「カベ新聞」なるものが、小学校から帰る途中の広場に貼られていて、そこそこ町内では話題になるのだが、誰が作って貼っているのか分からなかった。
だが、主人公が家にいる時、同居している祖父が出かけるので、後をつけてみた。
すると、句会に行くのかと思いきや、遠回りして、・・・いつの間にか背の高い枯れ色の草が生える野原に着いた。
そこに一人用のテントがあった。
なんと、じいちゃんはそこで「カベ新聞」を作っていたのだ!
(なんのために?)
「隠しごとをしているときは、何かに付けられているような気がすることがあり、それは大抵、子どもで女の子だ」と祖父が言った。
そんなおじいちゃんも、倒れて入院することになる。
ボケも出ているかも知れない。
そして、「カベ新聞」のサイシュウカイが貼られていたらしい。。。(タイトルと本文にはサイシュウカイとだけ記されていた。)
じいちゃんは、治療を施されて、主人公の中野サト君が待合室でまっていると、父が仕事帰りでやってきて、主人公が生まれる前の移動遊園地ことを語り出した。
主人公は、友人のカズと、最終回のカベ新聞を見た。
そこへ、俳句の先生がやってきて、この紙は、ホレリスコードだという。
(そういうわたしも、大学でFORTRANプログラミングをしたときは、パンチカードを使った記憶がある。MELCOM-70とかいうマシンを利用していた。記憶違いはご容赦を。)
そして、その俳句の先生が、ホレリスコードを解読する古いマシンを持っているということで、自宅へ行き、マシンを動かそうとしたが、もはや使い物にはならなかった。
そのため、最後のカベ新聞が意味する内容は、解読できないままとなった。
描写される時代は、少年時代と現在を行ったり来たり。
(大人になった主人公は、現在のその町の開かれた図書館に驚いているようだが、もともと図書館は、そういうところだ。この本も図書館で借りた。)
少年時代
ハナが、「すごいところに連れて行ってあげる」と言う。
お社の裏。
行ってみると、そこには、石やがらくたで作った古代遺跡のような石塚があった。
すぐそばの高台から神社の反対側の緩やかな丘の斜面を見ると、塚の影が映し出されていた。
それは、鼻を曲げながら上のほうに伸ばして、牙をむき出している像だった。
これを聞きつけた町人たちが、続々と見にきた。
という話を聞いたところで、現在に戻る。
そして、感想に書いたような話のあとは、最初に書いたように、しょぼくれた町しか、そこにはなかった。
第二話 太陽の側の島
登場人物
・真平:主人公、出征中
・チヅ:主人公の妻
・陽太朗:主人公の子
第二次世界大戦だろうか、出征中で南の島での食糧生産に携わる夫・真平と妻・チヅとの手紙でのやり取りが最後まで繰り返される。
互いを気遣う様子には、心打たれるものがある。
南の島では、あまり敵の攻撃もなく、現地人とうまく、のんびり暮らしていけている様子が綴られますが、一方、日本においては、みな食べるのもやっとという中、優しすぎるチヅは、怪我をして衰弱した敵国兵を自宅で介護してしまったようです。
いつ、元気になったら襲われるかもしれないと真平は心配でなりません。
小さな敵国兵は、息子とも打ち解け、元気になりました。
ある日、三人で出かけたとき、遠くで閃光を見ました。気が付くと熱くて息ができません。
(たぶん、原爆でしょうか。ここは広島?)
小さな敵国兵は、消えて無くなりました。
こんな手紙のやり取りが、延々と続き、チヅは変な妄想を語ります。
そう、真平さんが居る大地は、太陽の側にあるのではないか、と。
つづく(略)
第三話 L.H.O.O.Q.
先月妻が他界した男の話。
残された犬をどうしようかと思っていたところ、散歩のときに都合よく逃走してくれたのである。
だが、こっちが捨てようと思っていた犬に逃げられると、逆に妻に捨てられたような寂しい気持ちになったので、逆に探してやろうとなったのです。
そして、犬を探していると、恰幅のいい自転車を引いた女性と出会い、犬を探す格好じゃないわね、などと言われたものだから、毎日服装を変えてその女性の意見を聞くのだった。
(なにしとんねん・・・)
やがて、その女性の部屋に行くようになり・・・。(まったくもう、結局そういうことかよ・・・。)
つづく(略)。
感想
オブジェクタム
世に中にある記録、新聞、情報などは、どれも信ぴょう性に乏しいが、それでも、誰かの参考になればと考えて書き込むのがいいのだろうか。
「あとは、たくさんのひとがそれがほんとうかウソか、いいことか悪いことか判断する」
著者が、じいちゃんのカベ新聞つくりを通して、伝えたかったことは何なのか。
「その姿が不確実なものだったとしても、なるたけたくさんまわりにあるものを調べればその輪郭くらいは明らかにできるっていうことを、ぼくは静吉じいちゃんに教わったんだ。」
太陽の側の島
第二次世界大戦だろうか、出征中で南の島での食糧生産に携わる夫・真平と妻・チヅとの手紙でのやり取りが最後まで繰り返される。
このような形でさいごまで行くというのが、すごいというか面白いか。
気を使いすぎてなのか、戦争という過酷な状況がそうするのか、チヅの方が大変だろうと読者は思うから、途中から妄想のようなものが語られるのは、その戦争のせいでと考えて読んでしまう。
夫の方は、軍の命令で食料の生産に携わっているのかも知れないが、のんびりとしており、そのため互いに勘違いなどが起こってちょっとは面白い。
最後は、チヅさんの宇宙規模の妄想のようなものになっているのは、どう解釈したらいいのだろうか。戦争のせい?
L.H.O.O.Q.
これは、なんのことだろう?
エラショオキュ(彼女はお尻が熱い)、フランス語で発音すると、括弧内の意味に聞こえるとか。
これは、マルセル・デュシャンがモナリザの絵に髭を足して、あたらしい作品にしたもので、
デュシャンは“前衛の神様”として今でも彼の精神は多くの前衛作家に受け継がれていて、
創造活動の中に「レディメード」という概念を持ちこんだそうです。
「レディメード」とは既製品に少しだけ手を加えて「美術作品」として発表すること。
作者はほとんど作品作りには関わらずに、独自の見方で既製品に美術的価値を見出し、鑑賞者に問いかけるというもののようです。
さて、これが、この最後の短編とどういう関係があるのでしょう。
亡くなった妻と、それから出会ったその女性が似ていた、ということから来ているのでしょうか。
亡くなった妻は、興奮すると少し発光したとか言っているのも、尋常ではありませんし、その出会った女は光らなかったらしいですが、亡くなった妻が、L.H.O.O.Q.(彼女はお尻が熱い)だと言いたかったのでしょうか。まったく分かりません。そこがいいのかもしれません。
前衛芸術は難解ということかな。
高山羽根子さんのプロフィール
1975(昭和50)年、富山県生れ。2010(平成22)年、「うどん キツネつきの」で創元SF短編賞佳作、2016年「太陽の側の島」で林芙美子文学賞を受賞。2020(令和2)年、「首里の馬」で芥川龍之介賞を受賞。著書に『オブジェクタム』『居た場所』『カム・ギャザー・ラウンド・ピープル』『如何様』『暗闇にレンズ』などがある。(WEB上の紹介文より)
〆