一人称単数 村上春樹 文芸春秋 2020年7月 第一刷発行

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一人称単数とは、「人称1つで、話し手自分自身のこと「私」「僕」「俺」など。」と書いてありました。

目次

内容紹介・感想

石のまくらに

このような、そう、羨ましいとも思うようなことが、村上さんの小説ではよく起こる気がする。
さて、物語の中では、19才の少年が、25才くらいの女性と関係して詩集をもらう。
彼女は好きな人がいて、その人は彼女をとくに好きでもないのに、やりたくなったら呼びつけるという。
二人は二度と会うことはないという設定だ。
詩集の短歌を見れば、そういうつもりでもないのかな、という作品があったりもする。
五つの短歌の良し悪しは、私には分からないし、意味が分かるのも一つくらいである。
若い頃の記憶には、なぜか消えないものがある

クリーム

やはり、わけの分からん話やったわ。
何が、クリームやねん。なんか、しょうもないつまらん話やったわ。
と言いたくもなる。
さて、話のあらすじとしては、若い頃の不思議な体験(本人が不思議と言っているだけだが。)を年下の友人に話す話である。
不思議な話は、読んでもらったほうがいいと思うが、ちょっとだけ備忘録的に書いておくと、『長いこと会ってない
人から音楽会に招待されて、行ってみたらそこは無人の館だった。途方に暮れて近くの公園で座って目を閉じて
から目を開けると、老人がいて話しかけてきた。「中心がいくつもあって、外周を持たない円を、きみは思い浮かべられるか?」そのあと、「クレム・ド・ラ・クレム」を知ってるか?とか、「それが人生の一番大事なエッセンス、それ以外はみんなしょうもないつまらんことばっかりや」と言う。その話を聞いた年下の友人も「中心がいくつもあって、外周を持たない円の解答はみつかりました?」と聞くしかないのである。

チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ

学生時代に書いた、架空の音楽評が、ある大学の文芸誌に載って、ある程度の反響を得た、という。
文章に読み応えがあれば、プロの編集者も、うっかり載せてしまうのだな、と思った。
そのあとに、「後日談」と「もうひとつの後日談」が書かれている。
最初の後日談は、もう社会人になっていて、仕事でニューヨーク市に滞在していたときに訪れた中古レコード店で、その幻のおふざけの音楽評で書いたランナップどおりの(あるはずのない架空の)レコードを発見したが、買わなかった。
後悔して翌日買いにいくと、そのレコードは無く、店主もそんなレコードは、はじめからないと言う。
もうひとつの後日談は、まあ、著者の都合のいいような話にはなっているが、この夢の話を是とするか非とするかは、あなた次第。

ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles

歳をとったときの、奇妙に感じる点は、著者と同じだ。その観察に、まず驚く。
若い時ビートルズが流行ったが、著者にとっては、進んで聴くものではなく、青春時代の背景音楽だったという。それを「音楽的壁紙」と称しているのは、面白い。
『実際に僕の心を強く捉えたのも、そのジャケットを大事そうに抱えた一人の少女の姿だった。(中略)そしてその情景は一瞬のうちに、僕の心の印画紙に鮮やかに焼き付けられた。焼き付けられたのは、ひとつの時代のひとつの場所のひとつの瞬間の、そこにしかない精神の光景だった。』
そのような経験は、誰にもあるのではないだろうか。「精神の光景」と聞いて、一般的に思い出が美化されるよくある話を思い出した。私も高校時代に、著者と同じように廊下ですれ違うだけだった美しい同級生(クラスは違う)の印象は今も鮮明に思い出せるが、著者が冒頭で書いているように、自分が歳をとってもなんとも思わないが、このような美しい思い出の対象である人も歳をとったであろうと推測し、『かつての少女たちが歳をとってしまったことで、悲しい気持ちになる(中略)』というのは、そのとおりであると思う。
それから、高校生のときの彼女のお兄さんの話になるが、このお兄さんは記憶が飛ぶ病気で、あまり外に出なくなった人だったから、彼女はあまりそのお兄さんのことをあまりしゃべらなかったらしい。
彼女との約束で、家を訪問したときに、お兄さんと長い時間話すハメになったことが書かれていた。
彼女とは別れたという。それから18年経過する。
街で声を掛けてきたお兄さんから衝撃的な事実を聞く。
そう言われても「僕」にはどうにもできない。だって「僕」にとっては、その彼女も「そこにしかない精神の光景」に過ぎなかったのだから、と思う。

「ヤクルト・スワローズ詩集」

村上春樹さんが、小説家としてデビューするころの話や、ヤクルトスワローズ・ファンになったいきさつなどが、書かれている。
もともとは、阪神タイガース・ファンだが、上京してヤクルトスワローズ・ファンになるという感覚は、よく分からない。
まあ、住んでいるところにゆかりのあるチームを応援するという考えも分からなくはない。
ただ、好きな球場が自宅から歩いて行ける距離にあって、空を見ながら、冷えた黒ビールを飲むのが好きという著者が羨ましい。

謝肉祭(Carnaval)

美しくない女性の話。あえて醜い女性と表現している。
『自分が美しくないことを、それなりに愉しめる女性は、むしろ幸福であるとは言えないだろうか』と、「僕」は言うのだ。
だれも、即座にうんとは言わないだろう。
「僕」は、五十歳過ぎのとき、十歳くらい年下の「これまで僕が知り合った中では、いちばん醜い女性だった」という「F*」なる女性と、サントリーホールで行われた演奏会で、偶然に知り合い、音楽について語り合ううちに、音楽のこと語り合うため会うようになった。
「僕」の奥さんは、彼女があまりにブスなので、気にも留めなかったそうだが、そんなものでしょうか。ブスでいいこともある?
とくに二人が好きだった、シューマンの「謝肉祭」のことが語られ、四十以上の違う演奏家の演奏を聴いて採点しているという話に影響された読者の「私」は、YouTubeで探して聴いてみた。ルービンシュタインの演奏は二十八分あったが、これで合っているのか、素人の私には分からなかったが、とりあえず聴いてみた。
とりとめもないような音楽が、十何個か続いた。ま、それはおいておこう。
その「F*」からの連絡が途絶えて、しばらくして、詐欺犯として逮捕される様子がテレビニュースで流れた。
そうなって、全然会わなくなってからも、「僕」はずっと、新しい「謝肉祭」を聴いては採点しているらしい。
好きなコト、習慣づいたコトはやめられないか。
もうひとつの、よく似た若いころの話も書いてあるが省略しよう。
著者が言っているのは、人生の経験、記憶が時々思い出されて心が揺さぶられるということらしいが、もう少し歳を取ったら自分もそうなるのかも知れない。

品川猿の告白

行き当たりばったりのひとり旅。群馬県のある温泉で、湯舟に浸かっていると、猿が入って来た。
その猿は、この旅館で働いていて、背中を流してくれた。
あとで、部屋にビールを持ってきてというと、わかりました、と言う。しゃべる!?
そして、自分は品川にいて、放逐されて、ここにやってきたが、他の猿と馴染めず、ここで暮らしているという。
その猿は、恋心を成就させる不思議な方法を会得していた。
それをされた女性たちは、タイミングによっては、相当困るが、ずっと困るわけではなかった。
著者は、そんなしゃべる猿のことを誰にもしゃべらず、五年も過ぎて、すっかり忘れていたころ、打ち合わせていた編集者の女性に、その症状が出たのである。
恋心を成就させる不思議な方法は、理解し難いが、村上さんらしく? 面白い。
『しかし悪いとは思うのだが、彼女に品川猿の話をすることはやはりできない。』そうだ。 ふふっ、なんか愉しい。

一人称単数

私、の人生の話、か。ただ、この語り口は非常にわたしの思考に馴染んでいて、違和感が無いのである。
内面のことを、切々と語っているが、「そう、そうなんだよ」と思いながら読む。
いつもこうだ。村上さんの文章は私の思考にはまる。
まあ、ファンはみんなそう思っていて、おまえがいうな、とか、おまえの気のせいだ、と思われることだろう。
さて、たまにスーツを着たくなる、ことなんてない私ですし、わざわざクリーニング店のビニールに包まれたスーツを破いて出して着てみようなんてことは思わないが、この小説の「わたし」は、なぜかそうする。
ポール・スミスのスーツに合わせてネクタイとシャツを選んで、悪くない、と思って出かけて、気分がいいものだから、初めてのバーに入って、気持よくウォッカ・ギムレットを飲むのだが、自分自身に漠然とした違和感があるのだ。
そうして妄想が始まる。人生の分岐点に思いを馳せる。
気がつくと、少し離れて女性がひとりで飲んでいる。
「わたし」は、いい気分で文庫本を読んでいるが、店が混んできて、その女性が隣の椅子に詰めてきた。
そして、いきなり言うのである。「そんなことをしていて、なにか愉しい?」と。
おお、誘ってきたか!と読書の男性陣は目を大きく開けるが、「わたし」にしてみれば、何もしていないのに、いきなり喧嘩を売られたようなものである。
そして、突然身に覚えのない、おぞましい過去と、その恨みを告げられるのである。
これは、どこかでみた風景だ。そうだ、この前の飲み会で、読者の「わたし」のおぞましい過去について、知らされてしまったことと一緒だ、と思った。
記憶の断片がつながり、ようやくその当時の自分の振る舞いが脳で完成され、「そうだったのか」と得心したのである。
でもこの小説の場合は、ちょっと違う。この小説の主人公である「わたし」には、まったく身に覚えがないのである。
ほんとうに、ゾッとする話であり、その結末もぶっ飛んでいるのである。
この妄想的なところが、村上春樹だなあとか思いながら、読者である私自身の暴かれたおぞましい過去を思い出して反省するのである。



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